浅利先生と私。

団 こと葉

浅利先生が亡くなった。

人はいつか必ず死ぬのだから、それが年長者から来るのなら、幸運と思わなければね、というのは父の言葉。だからまだまだお若い方が亡くなる時には本当にやりきれないものだけど、私自身の祖父母が亡くなった時も、『ウェストサイド物語』京都公演共演中にたっつぁま(立岡晃さん)が78歳で亡くなった時も、悲しさをなんとかそんな風に受け止めようとした。

しかし、とうとう浅利先生の番が来てしまった。私の、そして多くの演劇人の人生を変えた圧倒的カリスマ。稽古場では本当に怖くて、私も何度も役を降ろされたり、数回本気でクビにもなりかけた。それと同時に無茶とも言える大抜擢も何度もして下さり、メインがはれる役者として育てて下さった。それに加えて個人的な思い出も多数あることは、本当に人生の財産だと思う。

私が俳優として在団していた2003年~2014年には、常に500~600名程の俳優が在籍していて、またそのうちの3分の1は3年以内に入れ替わってしまうという激しい時期だった。劇団としても毎晩10公演、年間3000公演を日本全国でやっている規模だ。

そんな中で入団初期に「バレリーナだけど腹式呼吸がしっかりできている、名前の変わった子」として認識して貰えたのは幸運だった。

いわゆるお気に入りタイプでもない私を、「団はインテリジェンスがある」と褒めて下さり、ダメ取り(演出家の横でダメ出しや演出変更をメモするアシスタント)をしながら、演出家の目線で稽古を見ることを勉強させて貰った。天才が頭の中で何を考えているのか想像もつかないし、稽古している全俳優の命運を分ける事もある役割なので、毎回それはそれは緊張したが、自分がまだ携わることの出来ないストレートプレイや憧れの名作の稽古場に入り、本気演出家モードの浅利先生の稽古を見られることは、本当に楽しかった。

私が京都生まれだからということで、出演作以外の京都公演の舞台稽古に連れて行ってもらう事も、何度かあった。行き帰りの新幹線のグリーン席で、教えてもらった日本酒オンザロック片手にいろんな話をした。稽古場を離れた先生は、いつもとびきり優しかった。家族と来慣れた錦市場で、お正月用の買い物をした。デパ地下で知らないうちに私にお土産を買っておいてくれて、帰りの新幹線で「京都帰りには、いづうの鯖寿司だろう。」と持たせて下さった。

思えば東京でお寿司や居酒屋に連れて行ってもらうときも、よくお土産を貰った。一度バレンタインの日にお寿司をご馳走になることがあって、いつも頂いてばかりだし、バレンタインだから、とチョコレートを用意して行ったら、いたく感激して大将に自慢してくださり、私はなんだか恥ずかしかった。

2011年、開幕直前にオンディーヌの稽古に初役で入ることになった。他のキャストはその2ヶ月前から稽古をしていて、ほぼ仕上がっているように見えた。焦った。

その場しのぎで前回公演の同役を真似した。叱られた。「雰囲気芝居しやがって!!」…私もそう思った。

次の日、芝居は急に上手くならないんだし基本に忠実にと、練習通りとにかくしっかり喋った。叱られた。「お前の自主練習見にきてるんじゃねぇんだ!!」…ごもっともだった。「明日もう一回見てその時クビにするから、ロッカーの荷物まとめてから明日の稽古参加しろ!!」と言われた。夜中まで自主稽古した後に、泣きながら母親に明日が最後だと電話したのを思い出す。

そして次の日、何が正解かはまだわからないけど今日初日ならこうやる、という芝居をした。「団は…、パセ(=パセティック。悲しみに浸ってる方面での感情的。)だな。」と言われた。確かに法廷シーンにしては台詞に感情がのりすぎた。終わった、と思った。でも何故かクビにならなかった。芝居は相変わらず良くないが、必死にもがいて毎日変えてくる姿だけを認めて下さったんだと思う。

幕が開いた。そしてすぐに、3.11の大震災が起こった。戦争を体験されている先生は、「これは皆が思っているよりも大ごとだ」と直感的に思い、首都高が封鎖される前に横浜から都内の劇場に車を走らせて来て下さった。劇場ロビーで今後の方針、お客様対応の会議が進みながらも、余震が来るたび、全員で劇場の外へ避難した。何度目かの大きめの余震の時、売店のアルバイトの女の子が取り乱して、先生を突き飛ばして外へ逃げた。先生は、「いいから、みんな逃げなさい。俺が建てた劇場なんだから、誰か死ぬなら俺がいい。」と返し、余震のたび最後に劇場を出ていたのを、今も鮮明に覚えている。

書き出せばきりがない。いや、きりはある。私よりもっと身近な方、もっと昔から長く先生に育てられた方、本当に語りつくせないほどの話がある方は、きっと沢山いる。そんな中で、女優としても、一人間としても、目をかけてもらった時期があることに、心から感謝している。

とある作品で、先生が私を責任者に抜擢してくださり、私よりも適任の大先輩がいる中で、私が全稽古の指揮をとることになった。必死で、私が良いと思うように作った。1ヶ月して様子を見にきて下さったとき、「よく稽古出来てるじゃないか」と言ってくださり、私について来てくれた若手俳優全員が外れることなく初日に立ったときには、本当に嬉しかった。

それが、いま私がニューヨークで演出や演技法を勉強したり、少しずつ作品を発表している原点だと思う。

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先生、私をダンサーでなく俳優として育てて下さってありがとうございます。だから大きな怪我でもう前みたいに踊れなくなったとき、私、絶望しませんでした。

先生、私に指導や演出の面白さを教えて下さってありがとうございます。こっちの方はまだ駆け出しですが、まず十年くらいは必死で頑張ってみます。

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浅利先生のご冥福をお祈りして。

2018年7月